生と死

コロナもぼちぼち回復して週末の草野球にむけて筋トレしてみたらすげえ気持ち悪くなりました。だいいち、ミルクティー味のプロテインってのがよくない。こんな味のプロテイン飲んだらそりゃあ気持ち悪くもなるだろ。レモン味とかにしとけばよかった。

NHKのむかしの映像集を観ていたら、立川談志が登場して、ベネズエラを旅行していたのだが、そのへんに落ちてるマンゴーをサッと拾って、ジュルジュルと食べだした。

「当たりゃしないよ、当たって死ぬようなやつは死ねばいいんだ。地球に人間なんかたくさんいるんだから」というようなことを言ってて感銘を受けた。そうだ、人間はそのへんのものを拾い食いしてコテッと死ぬくらいでちょうど「らしい」のではないか。海に飛び込んで溺れて死ねばちょうどいいのではないか。ノムさんこと野村克也氏の死因は風呂での溺死だったが、使用人や周囲の人が細心の注意を払い、つまりノムさんの命を必死に守るつもりでいたなら、風呂にも使用人か誰かしらがついて、ノムさんが溺死することは避けられたし、散歩するときだってボディガードをつければいいし、でもだれもノムさんの命をそこまでして守ろうとしなかった。そして俺の大好きな伝説の野球人はあっさりと溺死したのだが、それでよかったんだろう。ノムさんの命でさえ、そこまでして守るものではないと思う。福本伸行の言葉の意味がちょっと理解できたかもしれない。福本伸行の「天」という作品では沢田というヤクザが「何も生み出さない凡人が必死に生きながらえても何にもなりゃしない」みたいなセリフを言うし、「カイジ」に登場する兵頭は「命を大事にしすぎると機会を失う、もっと命を粗末に扱うべきだ」というようなことを言う。なんだか世の中は生に執着しすぎ、生きながらえることこそ絶対の正義だと思い込みすぎてるふしがある。たとえば政府が自殺対策を図るのは理解できる。なぜなら若者、つまり労働力に自殺されては経済がまわらないし、税収も減るから。政府は国民にもっと働かせて税金を吸い上げたいのだ。だから健康促進を訴えるし、自殺の対策だってする。でもそんな意図とはうらはらに、我々市民は本来もっと自由に生きたり死んだりしていい。ノーヘルバイクでこけて頭打ってあっさり死ぬ自由がある。そして人間は本来そのようにあっさり死ぬのがよく似合う。なのにどうして世の中は我々に生きることを強要するのだろう。命にそこまでの価値は無い。もっとどんどん命を粗末に、自由に扱おう。旅に出てそのへんで凍死するのもいいかもしれない。